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第219回 HEADLINE代表取締役・岸本優二氏【前半】

インタビュー リレーインタビュー

岸本優二氏

今回の「Musicman’s RELAY」は株式会社FM802・802編成部部長 「RADIO CRAZY」プロデューサー・今江元紀さんのご紹介で、HEADLINE代表取締役・岸本優二さんの登場です。

ガソリンスタンドのアルバイトから一転、ライブハウスで働き始め大阪を中心に複数のライブハウスを運営。若手発掘のイベント「十代白書」「NEO STANDARDS」「CONTACT!!」や関西に縁のあるアーティストが参加する「KANSAI LOVERS」などを主催し、関西発の音楽カルチャーを全国へと発信し続けているHEADLINE代表取締役の岸本さんに、関西の音楽シーンの未来について語っていただいた。

 (インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也、Musicman編集長 榎本幹朗)

 

外ではパンクバンド、家ではアコギで長渕剛

──ご紹介いただいたFM802 今江元紀さんとのご関係は?

岸本:今江さんとは、ぴあの時代から一緒にお仕事をする機会が出てきて、そこからFM802に行ってからは一気に距離が近づきましたね。仕事の内容的にも扱っている部分が重なっていて、共通言語も一緒でマインドが近いといいますか。

彼自身も学生の頃からブッキングをしていた人なので、ライブやチケットの現場を知っている。そういう人がメディアの中に入ると、すごい化学反応が起きるんです。今では、20回近く続いている新人発掘イベント「CONTACT!!」も一緒にやっています。

──わかりました。ここからは、岸本さんの生い立ちから伺えますか?

岸本:大阪の四條畷の出身です。今でも18歳になったらすぐに免許を取る人が多いぐらいの地域で、土地の半分ぐらいは山なんですよ。163号線にトンネルがあってそれ越えるともうすぐ奈良で、夕日がきれいに見える場所としてアー写の撮影なんかでも使われたりしますね。

──ご家庭で今のお仕事に繋がるような環境はありましたか?

岸本:子どもの時は父がなんとなくライブハウスの仕事をやっているのかなくらいの認識で、「家に全然帰ってけえへんな・・・」といった家庭環境でしたね。兄が一人いるんですが、兄もライブハウスの店長をやっています。

──では、今では家族でライブハウスを経営されていると。

岸本:でも、この仕事をするつもりは全くありませんでした。当時はライブハウスがここまで社会的な地位を確立していない時代でしたから。

──学生時代はどんな感じだったんですか?

岸本:中学でサッカーをずっとやっていたので、高校でもサッカー部に入ったら先輩に「パン買ってきてくれ」と言われて、「パンを買いにサッカー部入ったんじゃないんで、やめます」ってゴールデンウィークに入る前にやめました(笑)。その後に自然と音楽が好きになってバンド活動をやるようになりましたね。いわゆる一般的な音楽の入り方だと思うんですけど、高校生からカバー曲をやりながら学園祭に出演したり、バンドではパンクバンドでギターボーカルをやっていました。外ではパンクバンドだけど、家に帰ったらアコギでひたすら長渕剛を歌うみたいな(笑)。

──精神的にもパンクな少年時代ですね(笑)。進学についてはどう考えていたんですか?

岸本:高校3年生の夏に進路指導の先生に呼ばれて、「そのまま大学に行かせてもらいます」みたいな話をしたんですけど、「うちは付属校じゃない」と言われて。名前に大学の名前が入っているから、大学にエスカレーター式で繋がっていると思っていたんですよ(笑)。そんな考えだったのでそれまで受験勉強は一切しておらず、「これでお前ちょっと考えてこい」と先生から分厚い専門学校の一覧表みたいなのを渡されて・・・。

──残り数ヶ月で急に進路を決めなくていけなくなってしまったと(笑)。

岸本:今では音楽をやっていたらそこに関係するような学校に行くことは普通なことだと思うんですけど、当時は音楽をやっているからこそ音楽の学校に行くという考えでは無かったんですよね。そのまま家に帰ってその分厚い専門学校の一覧を見ていたら、栄養士の学校が書いてあったので、飲食店のアルバイトをしていたこともあり「国家資格だし、これはもう行くしかない!(笑)」と入学を決めました。そんな中で資格勉強をしながら2年間バンドをやりながらバイトもして、学費も自分で払わないといけなかったので、結構忙しい日々でしたけどね。

 

ガソリンスタンドのアルバイトで月給40万円

──アルバイトは音楽に関係するものだったんですか?

岸本:そんなに関係あるものではなく、高校時代はダイエーという、スーパーの中に入っている飲食店でずっとバイトをしてたんです。高校生なので基本は夕方か土日だけみたいな感じだったんですけど、学校の帰りに寄ったら、そこで働いているパートのお姉さんが「しんどいから代わりに明日店開けてくれへん?」って言われて、「じゃあ、開けましょうか?」って、このまま高校を辞める感じになるのかなと一瞬思ったこともありましたけど(笑)。

──随分と信頼されていたんですね。

岸本:求められると嬉しくて、ついやっちゃうというか。高校生ながらに朝から店を開けるみたいなことをしていました。ほかにも警備員のバイトしていた時に、土木のおっちゃんに「お前若いねんから、稼ぎたいんやったらこっち来い!」と誘われて、スコップを持つようになったり、心斎橋のビアガーデンで夜中まで働いたり。でも、その経験は今でも繋がっていると思います。人とのつながりとか、働くことの面白さはそこから知りましたね。

──専門学校卒業後はどうされたんですか?

岸本:当時、洋楽のアーティストが好きだったので海外に興味があって、ワーホリか学生ビザでどこかに行きたいなと思っていたんです。そのために地元に帰ってバイトを探して、ガソリンスタンドで働き始めて。そしたらこれが面白いことに、どんどん評価されていって。先程の話じゃないですけど、求められていることをやっていたら「お前、やるやん!」って認められて、気づけば時給1800円までいったんです。その頃は20歳くらいでしたが、月給が40万円ほどありました。

──アルバイトでその金額はすごいですね!当時からビジネスセンスを持たれていたんですね。

岸本:その当時、セルフスタンドってあまりなかったんですよ。たまたまガソリンスタンドの裏に中小企業の社長さんが事務所を構えていたので、そこに営業しに行って「社長の車洗えますよ」「営業車入れてください」みたいな話をしてたら、結果的に僕自身の顧客もどんどん増えていって、その流れで危険物取り扱いの免許も取って。でも、そんな順調な人生が変わる出来事があったんです。

 

父からの誘いでライブハウス人生がスタート

──というと?

岸本:父から「ライブハウスで一回働いてみないか」と話がでたんです。その時の記憶だと、父がわざわざガソリンを入れに来て、「いつまで油売ってるんや」って、まるで親父ギャグのようなことを言って(笑)。

──(笑)。事前にそういった話もなくいきなりだったんですか?

岸本:そうなんですよ・・・その時は本当に悩みましたね。時給もいいし実家住みだし、海外に行きたいなとか考えていた時だったので。でも、お金も結構溜まっていたので「今の生活を変えてみようかな」と色々なタイミングが重なった感じだったんですよね。

──そこからがライブハウス人生がスタートになったわけですね。最初はどんな仕事を?

岸本:本当に何も分からないまま始めたので、ライブハウスの基本的なことからです。尼崎にあったLIVE SQUAREというライブハウスからスタートしたんですが、今はなくなっちゃいましたけど、その2号店が今のLIVE SQUARE 2nd LINEなんです。

ライブハウスで働き始めて、その頃はインディーズ=ビジュアル系みたいな流れもあり初めて見た時は本当に衝撃を受けましたね。「めっちゃ首振りの人たちがいる!」って(笑)。バンドでライブハウスに出たことはありましたけど、父のライブハウスは避けて通っていたので、地元の小さいライブハウスしか知らなかったんです。

──その後、LIVE SQUAREはなくなってしまったのはどういった経緯だったんですか?

岸本:LIVE SQUAREはVIVREというショッピングモールの中にあったんですけど、ビルの所有者が倒産してそのまま退店する形になったんです。音響の機材はそのまま全部残っていたので、どうしようかとなって大阪市内に移転してLIVE SQUARE 2nd LINEになりました

その前にBIGCATというライブハウスができた時の人事異動で、江坂Boomin Hall(現・ESAKA MUSE)の店長をやることになったんです。江坂は体育館みたいなライブハウスで300人以上入るんですよ。

当時はメジャーアーティストとのコラボが全然来なくて、地元のアーティストやバンドが多かったので、箱のサイズ的にもインディーズシーンを育てるのに適した環境だったなと思います。今でこそライブハウスの数も増えましたけど、当時はまだまだ少なかったですから。そこで、インディーズバンドのブッキングを手掛けるようになりました。

 

ブッキングからバンドマンとの関係を構築

──ブッキングはどのようにしていたんですか?

岸本:江坂は吹田・豊中の人たちが梅田まで行かなくても遊べるような面白い街で、地元のアーティストやバンドも結構いました。でも、ブッキングのジャンルもよく分からないままに始めちゃったので、本当に見よう見まねの手探りの状況でした。今となっては笑える話なんですけど、ビジュアル系とメロコアを同じイベントでブッキングして、それを「ミックスピザ」というタイトルにして、案の定埋まらず開き直っていましたね(笑)。

──まさにごちゃまぜで(笑)。中々大変なスタートでしたね。

岸本:当時はネットがないので、専門学校の先生に紹介してもらったり、バンドのイベントやったら他のバンドも来てくれて、そこで出会ったバンドが企画するとか、一緒に何か企画をやりたいって言ってくれたり。貰った音源を聴いて次のイベントを考えるような本当に地道な作業でしたね。

あと面白かったのは、バンドのイベントをやると、そこに来たバンドが音源を持ってきてくれて帰る頃には音源が10個くらい溜まっていたりするんです。今みたいなレコーディングされた音源じゃなくて、音源がスタジオでの一発録りみたいなデモテープなんですよ。だから音は悪いんですけど、逆にライブの実力がよく見えるんです。今は良い音源を取りすぎちゃって、そこの判断が難しくなってきてますけどね。

──その中で印象に残っているアーティストはいましたか?

岸本:大石昌良さんですね。バンドのSound Scheduleの音源をMDで持ってきたんですけど、まだ事務所にMDプレーヤーがあるような時代じゃなくて、時代に遅れているような状況を伝えるのが嫌で「ちょっとセットリスト書いといてください」と言って、事務所で聴いたふりをして5分くらいたったら「なかなか、ええやんけ!」と本人達に伝えてブッキングをしたこともありました(笑)。その当時のことは既にメンバーや本人にも伝えてあるんですけどね。

──(笑)。ブッキングをする中で人間関係が構築されていったんですね。

岸本:そうですね、バンドとの人間関係をしっかり作るというか。相談事とかちょっと話したいことがあったら、「ライブ行くがてらちょっと喋っていいですか?」とか昼間からバンドマンが遊びに来てくれたり。今でこそメジャーで活躍しているアーティストもたくさんいますけど、やっぱり大半は辞めていくんです。今も関係が繋がっているアーティストは、当時の深い関係があったからからだと思いますね。

──実際に売上はどうでしたか?

岸本:ライブハウスの売上ってキャパが決まっているので限界があるんですよ。ホールの使用料を倍にするか、2回まわしするかぐらいしか売り上げを増やす方法がないので。だから、逆にライブ以外のことを考えないといけなくて。

昔はライブハウスでよく結婚パーティーとかもやっていたんです。江坂の時は週末にブッキングをしないっていうのをテーマにして、結婚式や二次会のレンタルホール的な使い方もしていました。今では考えられないかもしれませんけど(笑)。

後半は3月26日(水)公開予定!

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