第38回 後藤 貴之 氏 株式会社ニューワールドプロダクションズ 代表取締役

インタビュー リレーインタビュー

後藤 貴之 氏
後藤 貴之 氏

株式会社ニューワールドプロダクションズ 代表取締役

今回の「Musicman’s リレー」は、sugar soul、orange pekoeらを擁する(株)ニューワールドプロダクションズ代表取締役、後藤貴之氏の登場です。
 クラブミュージックをシーンのメインストリームに押し上げた立役者として知られる後藤氏ですが、学生時代から数々のイベントをプロデュースし、早くから企業家としても活躍。そのプロデューサー魂は高校時代に熱中したDJ番組まで遡ります。群馬のいち高校生が、東京のプロダクションに名を知られるようになった、驚きのその訳とは…!?

[2003年10月14日/渋谷・NWPにて]

プロフィール
後藤貴之(ごとう・たかゆき) 株式会社ニューワールドプロダクションズ 代表取締役


1966年12月11日 新潟県新潟市生まれ(〜4歳) 群馬県太田市育ち
1985年3月 群馬県立太田高校卒業
同年4月 立教大学文学部英米文学科入学「Club DJ」入部
同年「M2 PLANNING」(学生人材派遣業務)設立「Save Africa Students Planning」(アフリカ難民救済学生組織)結成
1986年 「東京学生放送連盟」(関東の放送系サークルの非営利連盟)設立  キャンパス・リーダーズ・ソサエティ参加
1987年「日本青年芸術家協会」設立 様々なイベントをプロデュース
1989年3月 立教大学卒業「WORLD MANSION PROJECT」設立 クラブイベントをプロデュース
1991年7月 (株)ニューワールドプロダクションズ設立
2000年4月 (有)ニューワールドレコーズ設立
2002年5月 (株)マザーエンタテイメント 取締役就任 (株)ゲートレコーズ 代表取締役副社長就任

 

  1. FM番組作りに熱中した中高時代
  2. 高校のお昼のラジオ番組にトップアイドルがゲスト出演!? 番組作りに明け暮れた高校時代
  3. 表向きは学生、本業はフリーのイベントプロデューサー!? 〜大活躍の大学時代
  4. 足りない生活費はプロデューサー業で補填!? 大学時代唯一のアルバイトは…
  5. クラブシーンを盛り上げたい 〜大成功だった山本リンダさんの復活
  6. 様々な文化の発信地をめざして …GOLDの夢を託したSTUDIO COAST
  7. 基本はやっぱり「人」対「人」 …マネージメントの面白さ、スタッフのありがたさを痛感

 

1. FM番組作りに熱中した中高時代

後藤貴之1

--アーティマージュの浅川さんからのご紹介ですがどういったお知り合いですか。

後藤: 知りあってもう13年くらいですかね…もともとは彼がDJで新宿2丁目のブギー・ボーイで回してたときに僕はお客として行っていたので、そのときに同じ空間にはいたと思いますよ。ただ、僕はいつも酔っぱらってたのでよく覚えてないですね(笑)。ブギー・ボーイに行くときはたいていショットガンばっかり飲まされてたんで…だからちゃんと話をするようになったのは彼が南砂でお店(AMES)をやっているころですね。僕は大学を卒業してそのままクラブイベントのプロデュースをやっていて、西麻布で期間限定のクラブとかもやってたんです。それが、「20代の旗手たち」っていう企画で「日経トレンディ」誌に二人ともとりあげられて、それで青山のMIXってクラブに遊びに行ったときに、浅川君が「一緒に載ってたよね」って声かけてきてくれたんです。話してみると意外と共通の友達が多かったりして、そこから仲良くなりましたね。

--それ以来公私ともに仲がいいということですね。

後藤: そうですね。まあ同じ年っていうこともありますし…よく「(同じ年には)見えない」って言われますけどね(笑)。知りあった当初から、同じ年には見えませんでしたからね(笑)。

--ではまずご自身のことを伺います。プロフィールによるとご出身は、4歳まで新潟で、その後群馬県太田市、ということですが、太田市ってどのへんですか。

後藤:群馬のなかでも埼玉よりのほうです。「上毛かるた」では「つ:つる舞う形の群馬県」って言うんですけど(笑)、その鶴の首のあたりで、ほとんど埼玉との県境ですね。利根川の上が群馬県、下が埼玉県なんですけど、利根川まで自転車で15分くらいのところでした。高崎や前橋に行くよりも東京に出る方が近いんですよ。

--高校卒業まで太田市にいらしたそうですが、子どもの頃はどんな少年だったんですか。

後藤:好奇心の塊のような変な少年だったと思います(笑)。…ただ、小学校の時に生徒会長をやっていて、中学も生徒会長でしたね。

--成績優秀だったんですか。

後藤:どうなんでしょう。ふたつ上の姉が副会長をやっていて、そうなると、順当に弟もなっちゃうっていうか…なんかやたらと代表とか先生にやらされてた気はしますけど、まあ、単なる目立ちたがり屋だったんじゃないですかね。

--当時からリーダーシップを発揮されてたんですね。

後藤:ちゃんと発揮できてたかどうかはわかりませんけどね。やたらそういう役回りをさせられて、人前によく出ていたとは思いますね。 中学2年生ぐらいのときなんですが、友達に金持ちの息子がいて、HAM無線をやってたんですよ。そしたら今度(電波を飛ばす)ブースターを買ったからなにかやろう、っていう話になって、それで番組を作って編集して、ミニFMみたいなのをやったんです。

--中学生でですか?

後藤:そうです。当時はYMOが大好きだったんで、YMOばっかりかけてました。それでしゃべるほうのDJをはじめて…。

--それって違法ではないんですか。

後藤:違法ではないですね。半径数百メートルっていう微弱な電波なんで。ただ、いくつか中継地点は設けていましたけど。

--中学の時に「バンド小僧で」とか「ギターやってて」っていう話はよく聞きますけど「DJやってた」っていうのは新しいですね。ニューワールドですね(笑)。そういう時代だったんですね。

後藤:僕は逆に楽器はできないんですよ(笑)。どちらかというと、「スネークマンショー」を聴いて始めたというか…あれで小林克也さんの名前を知ったんです。FENもよく聴いていて、ケーシー・ケースンとか大好きで。ロスではFMブームだったんで、向こうのFMのテープを取り寄せたりしてました。

--地方都市の中学生としてはすごく進んでるほうだったんじゃないですか。

後藤:まあやりたいことばっかりやってたとは言えるでしょうね。一応勉強もしなくちゃいけないけど親に隠れてそんなことばっかりやってたっていう(笑)。

--ということは、そのころから洋楽をよく聴いていたってことですか。

後藤:トップ40ものばっかりですけどね。誰のファンとかじゃなくて、ほんとにヒットチャートが好きで…。

--そのへんは浅川さんとも共通点ですね。「エアチェックしまくってた」って言ってましたから。

後藤:ああ、僕もエアチェックはしてましたね〜。高校時代は毎月「FM STATION」買ってチェックしてましたよ。

--音楽に対する関わり方も、最初からアーティスト思考と言うよりもプロデューサー思考だったんですね。

後藤:そうかもしれないですね。

--そのミニFMはどのぐらいやってたんですか。名前とかちゃんとつけてたんですか?

後藤:いやもう適当にやってましたよ、学生やりながら…番組名とかありましたけど、覚えてないですね。何十回もやったわけじゃないんで。DJが本当に面白くなってきたのは高校に入ってからです。

--しゃべるほうのDJですよね。「高校に入ってから面白くなってきた」というのは、具体的に何をやってたんですか。

後藤:まず高校に入ったときに、放送委員会と新聞委員会というのがあったんですよ。それで入部したんですけど、名前が格好悪いじゃないですか。それで「名前変えましょう」って言って…1年生なのに生意気ですよね(笑)。生徒総会にかけてもらって、「放送局」と「出版局」って名前に変えたんです。 それから、(放送局では)お昼の番組とかもやってなかったんですけど、それもやりましょう、と。それまで音楽はかかってたんですけど、全てクラッシック、しかもしゃべりは全くゼロの状態だったんですね。ほんと生意気だったんですけど(笑)「それで僕は週末オビでもらいます。金曜日は僕にやらせてください」って言って(笑)。

--すごい新入生ですね〜(笑)。

後藤:そうなんですよ。今考えると恐ろしいんですけど(笑)。男子校だったんですけどね。

--男子校なんですか?じゃあ女の子にモテるためにやったわけじゃないんですね(笑)。

後藤:そうですね、男子しか聴いてませんから(笑)。どれだけの人間が聴いてたのかわかりませんけどね。慶応か早稲田かっていえば、早稲田、っていう感じのバンカラ系の学校でした。

 

2. 高校のお昼のラジオ番組にトップアイドルがゲスト出演!? 番組作りに明け暮れた高校時代

後藤貴之2

--週末のオビ番組はどんなものだったんですか。

後藤:まずその番組作りのきっかけなんですけど…中学3年から高校生になるまでの長い春休みに、デビューしたばかりの川島なおみさんがうちの地元のデパートにイベントで来ていて、友達がすごい大ファンだったんで僕もついて行ったことがあったんです。そのころは「ミスDJリクエストパレード」(*編註1)が始まったがばかりの頃ですよ。そのイベントで立ち入り禁止のところにたまたま入っていったら目の前に彼女がいて、話しかけたら応対してくれたんです。そういうイベントって2回くらいやりますよね。1回目の時に話してくれたので、2回目には図々しくもプレゼントを持っていったら、警備員がいたんですが、彼女が「大丈夫」って入れてくれて楽屋で話させてもらったんです。その一件で「なんだ。芸能人っていっても全然近いじゃん」って勝手に勘違いしまして(笑)。

-- 一気に垣根を飛び越えてしまったと(笑)。

後藤:そうなんですよ。それで高校に入って放送部に入って、放送局にしてお昼にしゃべることも認めてもらって…そのお昼の番組の1回目のゲストは松本伊代さんでした。

--ゲスト!?学校のお昼の放送にゲストを呼んだんですか?

後藤:いえ僕が行くんです。あとはほとんど電話インタビューでしたけどね。松田聖子さんは文面で最初にコメントをいただいて、厳密に言うとその松田聖子さんが最初のゲストですね。

--ほんとですか?スゴイですね〜!

後藤:やるなら徹底的にやらないと(笑)。

--相当図々しいですね(笑)。「太田高校放送局の後藤です」って電話したんですか?

後藤:そうですそうです(笑)。まだ1年生でしたし。わかってなかったんですよ、ガキなんで、なんでもできるんじゃないかって思ってて(笑)。たくさんの方に出ていただきましたね。松本伊代さん、河井奈保子さん、小泉今日子さん、中森明菜さん…中森明菜さんのときなんてもう絶頂期だったんですよ。

--その全員と話したんですか。

後藤:会ったりもしましたよ。僕がインタビューに出向いていったんで。

--もちろんプロダクションにまず話をとおすんですよね?当時は「Musicman」はなかったし…(笑)。

後藤:「明星」とか「平凡」ですよ。あれで連絡先とスケジュールを調べたんです。中森明菜さんの当時のマネージャーさんには、「オマエちょっとおかしいんじゃないか」って言われましたよ。行く先々にリハだろうがどこだろうが連絡しますから(笑)。携帯なんてない時代ですから、学校の休み時間に公衆電話から電話するんですよ。そこで交渉に交渉をかさねて…。

--向こうの都合は関係なく、学校の休み時間にあわせて電話すると(笑)。

後藤:そうです(笑)。

--向こうに行ってインタビューを録音して帰ってくるんですか。テレコかついだ高校生が…。

後藤:そうですね。最初はコメントをもらったり、電話インタビューをしてたんですが、後半は直接東京に出向いて、テレビ局とかにいるときに控え室にお邪魔して…新人だと楽屋に何人も一緒だったりして、そこで直接交渉で出てもらったこともありますね…。

--もちろん東京へは自費で行ってるわけですよね。

後藤:そうですね、まあ親には違う理由でいろいろお金もらったりして(笑)こつこつ貯めて…。

--その番組は高校の生徒たちにはバカ受けだったでしょうね。

後藤:最初は嘘だと思ってたみたいですよ。まさか本人が出てるとは思わないから、違う音源だったり編集してやってると思ってたみたいで。「群馬県立太田高校のみなさんへ」まで言ってもらわないと信じてもらえなくて。

--ですよねぇ。本物だってわかったときの反響は?

後藤:「ホントに?!」って感じでしたね。先輩なんて「彼女の連絡先を教えろ」とか言ってきたりして(笑)、連絡先なんてわかるわけないですよ(笑)。完全に勘違いしちゃって(笑)。

--(笑)ホントに豪華な番組ですね。おひとりでなさってたんですか?とくに仲間がいるわけでもなく…。

後藤:そうですね。基本的にはひとりで。家でもできないんですよ。ウチの親とか、そういうのは絶対に許さないタイプだったんで…公衆電話の脇に小銭をつんで、電話に録音できる機械をとりつけて、公衆電話から電話インタビューしてましたね。

--とんでもない行動力だと思うんですが、その原動力は何だったんですか。自分がアイドルに会いたかったとかじゃなくて「番組を盛り上げたい」ってだけですか。

後藤:そうですねぇ。ミーハー心もありましたけど(笑)。

--それも男子校なのに(笑)。

後藤:うーん、そうですね、ただやりたいことはやりたいし、できないことはないと思ってたんでしょうね。今でもその精神はあんまり変わってないと思いますけど。

--それは強烈な成功体験ですね。普通は大学くらいからいろいろな体験するんだけど、プロデューサーとしての経歴は中2ぐらいから始まってると。

後藤:そうかもしれないですね。だから高校1年のときそういうことをやってたんで、なにげにプロダクションのスタッフに僕の名前が知られていたみたいなんですよ。群馬にへんな高校生がいると。その年のアイドルはほとんど全員インタビューしてたんで。

--オマエのところにもあいつ来たか?って(笑)。アイドル全盛の時代ですよね。

後藤:そうです。1982年ですね。ただ僕より下の世代からは全然わからないんですけど。

--原点はそこにあったんですね。高校生活はその番組一色ですか。

後藤:そうですね。その番組は1年ぐらいやってたんですが、アイドルを一通りやったあとに、「ミスDJリクエストパレード」が大人気だったんで、文化放送に電話して、「うちの番組を作りたい」って言ったんです(笑)。

--(爆笑)

後藤:しかも「文化放送のスタジオで録りたい」って言ったんです(笑)。そのとき電話に出てくれたのが部長さんで、「なんだコイツは」って思ったそうなんですが、それがOKが出たんですよ。僕も文化放送まで一度行って打ち合わせをして…千倉真理さんにDJをやっていただいくことになってたんですが、結果的にはスケジュールの都合でできませんでした。千倉真理さんにはゲストで出ていただきましたけど、「ミスDJリクエストパレード太田高校版」はできなかったんです。でも千倉真理さんにはそれから大学卒業くらいまではいろいろ面倒見ていただきましたね。大学1年のときに文化放送にバイトに行ったこともあったし…バイトは1ヶ月でやめちゃいましたけど。
とにかくしゃべるほうに興味がわいてきて、高校2年のときは高崎のファッションビル「bebe」のなかのミニFM局でレギュラーをもらってしゃべってました。

-- 一応アルバイトにもなってたんですか。

後藤:そうですね、一応ギャランティはもらってました。月2回でしたけどね。

--ほかにそこでDJやってらした方々はプロの方ですよね。

後藤:そうですね。みなさんオトナの方々でしたよ(笑)。僕だけが高校生で。

--それはどんな番組だったんですか。

後藤:普通の音楽番組です。ちゃんと構成とかありましたし、女性のDJの方といっしょに構成に則してしゃべってました。

--「高校生DJ」として売ってたわけではないんですね。

後藤:別にそういうわけではないですね。

--ご両親はそういう活動には理解のないタイプだったと仰いましたけど、そういうDJ活動も秘密だったんですか。

後藤:まったく内緒にしてましたね。

--ご両親は普通の会社員ですか?

後藤:父親は若いときに独立して自分の会社を作ってたんですが、後輩の保証人になって借金をかぶってしまいまして…しばらくはいろいろやってたみたいですけどね。あんまり家には帰ってこなかったですね。僕が大学の途中ぐらいから腰を据えてサラリーマンやってます。

 *編註1
「ミスDJリクエストパレード」: 1980年代に一世を風靡した文化放送の深夜番組。
女子大生DJを日替わりで起用し、 川島なおみ、千倉真理、斎藤慶子らを輩出

 

3. 表向きは学生、本業はフリーのイベントプロデューサー!? 〜大活躍の大学時代

後藤貴之3

--高校時代は放送局のようなことをやったりDJやったりして、大学は立教ですよね。立教を選んだのには何か理由があるんですか。

後藤:いえ、特にないです。浪人するぐらいなら東京に出ちゃえというだけですね。進学校だったんで、どこかに受かっててももっと上をめざして浪人する人が多かったんですが、僕はとにかく早く東京に行きたかったんですよ。

--それで現役で立教に入られたんですね。85年というと、ほんとうにバブルの絶頂期ですね。後藤さんは大学時代にいろんな団体で活躍されていたそうですが、プロフィール見るとすごいですねぇ。まずは「M2 PLANNING」、モデルの人材派遣を立ちげたというのは、どういうものですか。

後藤:高校のときに駿台の夏期講習に通ってたんですよ。夏休みに3週間くらい、東京に滞在して講習受けてたんです。1年生の時は行ったり来たりでしたけど、2、3年の時は1ヶ月くらいいたかな?まあ遊びに行っていたようなもんで講義なんて全然受けてなかったですけど(笑)。そのときに予備校で知りあった連中と、何かやろうよってことで巻き込んで作ったのが「M2 PLANNING」ですね。入学式にはもう名刺持って配ってましたね(笑)。「私こういう者です」って。

--すごい1年生ですね(笑)。学生っていうより、もう働いてる人みたいですね(笑)。

後藤:姉がひとりいるんですが、姉は国立大学で、授業料免除の特待生だったんです。ウチの実家もあんまりお金なかったのに僕は私立でお金がかかるんですよ。だからアルバイトだけじゃまかなえないところもあって…僕ももちろん奨学金もらって通ってましたから。

--あんまり「苦学生」っていう感じはしませんけど(笑)。

後藤:苦学は…してなかったですね(笑)。

--「Save Africa Students Planning」というのは何ですか。

後藤:通称SASPといって、「アフリカ難民救済学生組織」です。これは“LIVE AID”を見て感動して、さらに“USA FOR AFRICA”に触発されて、「これは俺もやらなくちゃいけない。学生としてもできるだけのことをやるべきだ」と思って始めたものですね。

--ビジネスではなくて純粋に始めたものなんですね。

後藤:ええ、いたって真面目ですよ。ユニセフとかいろんな団体と交渉して、集まったお金も全部寄付しましたし。

--具体的にどういう活動をされてたんですか。

後藤:イベントですね。最初にやったのは立教の学園祭でのトークイベントです。それまで11年ぐらいやってなかった学園祭が復活することになって、やるならメインイベントをやりたいと思って、ほかの連中に押さえられる前に立教出身の古館伊知郎さんに出演をお願いしたんです。当日は僕が司会をやって、古館伊知郎さん、泉麻人さん、中森明夫さん、千倉真理さんに出ていただきました。あと長島茂雄さん、徳光和夫さん、細野晴臣さんにも声をかけて、この方々からはメッセージをもらいました。

--すごいメンツですね。

後藤:ちょうど新人類が流行ってるころで、泉さんや中森さんは一回お会いしたいなと思っていたんで。やっぱり大物OBの古館さんが出ることもあって、学園祭のメインイベントとして構内のいちばん大きい会場でやることになってたんですよ。パンフレットにも載っていたのに、開催2週間前に「SASP」はほかの大学の学生も参加している組織だって言うのが学校側にばれたんです。「そういうサークルにはうちの施設は貸せない」と言われまして…まあ当時の立教祭はチャペル団体と体育会が認めていないイベントで、正式な学園祭じゃなかったんですよ。復活1回目ですし、そういうこともあって厳しかったんでしょうね。いきなり学生部から呼びつけられまして。そこから大変でしたね。もうスケジュールは押さえてるし、やらないわけにはいきませんから、ほかの会場をいろいろあたって…結局サンシャインに貸していただくことになりました。結婚式に使うような場所を貸していただいて…駅の逆側なんですけどね。

--サンシャインはタダで貸してくれたんですか。

後藤:タダです。イベント自体入場料もカンパ制にしてたんで、出演者の方々にもお車代だけで…すべてチャリティでやりました。「イベント」の「イ」の字も知らなかったのによくやりましたよね。

--せっかくのイベントなのに会場が変わったりして大変でしたね。

後藤:そうなんですよ。最初はメインイベントのつもりでしたからね。お客さんは知らずに立教に来ちゃうんですよ。それでそこから看板出して誘導してサンシャインまで行ってもらって…歩くと20分くらいかかりますからね。あれはつらかったですね。

--SASPはいつまで続けたんですか。

後藤:2年ぐらいは続けましたね。

--ということは学園祭だけではなくて、ほかにもいろいろイベントをやられてたんですね。

後藤:そうですね。

--さっきの「M2 PLANNING」は具体的にはどういう活動だったんですか。

後藤:あんまりたいした活動はしてないですよ。学内外でかわいい女の子に登録してもらって、読者モデルとかが出てる女性誌にモデルを紹介して手数料をもらってたんですよ。

--スカウトマンも兼ねてたんですか。

後藤:僕だけじゃないですけどね。でもやってるうちにSASPに時間とられたり、個人的に続けてたDJが忙しくなったりしてだんだんこっちの活動は消えていきましたね。

--そういえば大学では放送サークルには入らなかったんですか。

後藤:「Club DJ」というDJサークルに入ったんですけど、すぐクビになっちゃいました(笑)。

--クビですか?どうして?

後藤:兼部が認められないサークルなんですよ。そのとき僕は「M2 PLANNING」とSASPと両方やっていて…パンフレット作りの時にばれまして。学園祭の時にね。Club DJも当然ブース出してやるわけですよ。それなのになぜ同じサークルの後藤が、パンフレットに(SASPで)1ページも使って出てるんだということで。会議にかけられまして、当時の部長に「後藤君が兼部をしていることが発覚したわけですが、後藤君には辞めてもらおうと思います。多数決をとります、賛成の人…」みたいな展開で(笑)。その当時の部長っていうのが、エイベックスの新崎さん(新崎英美氏:現エイベックス(株)執行役員)なんですよ(笑)。

--あの新崎さんですか(笑)?僕もよく知ってますよ、そんなケチなこと言ってたんですねぇ(笑)。

後藤:まあ部の決まりでしたからね(笑)。

--DJはどこでやっていたんですか。

後藤:Club DJをやめてからは個人でやってましたね。当時キディランドの前でホコ天があって、そこにブースがあってそこでレギュラーでDJやったり、池袋の大きい居酒屋にDJブースがあって、そこでしゃべったり。1年生の時はそんな感じでしたね。

--Club DJに対抗して自分でサークルを作ってやろうとかそういうのはなかったんですか。

後藤:それはなかったですね。かわりに「東京学生放送連盟」を作ったんです。そうそう、西さんのインタビューのなかで、僕がプロデュース研究会だったと書いてありますが、僕は違うんですよ。

--そうなんですか。それは失礼しました。

後藤:いえいえ、プロ研とはすごい仲良くさせていただいて、いつも行動は一緒にしていたんですけどね。 もともと僕が1年生の時に峰岸さん(峰岸真澄氏:現(株)リクルート執行役員、ゼクシィ発行人。当時のプロデュース研究会代表)たちの努力でが学園祭が復活することになって…峰岸さんはご存知なんですよね。

--ええ、僕は昔から遊び仲間なんですよ。学祭を復活させたって武勇伝は何度も聞きました(笑)。

後藤:峰岸さんは3年生で学園祭実行委員長だったんですが、僕は1年生で、SASPで参加することになったので、それで知り合いました。そこで仲良くさせてもらって…僕は学生時代もあんまりどこかに所属していたことはなかったんですよ。自分でいろいろ作ってばっかりで…そういう意味では、峰岸さんは僕にとっては「先輩」っていう感じですね。直属ではないですけどね。

--それで僕は後藤さんがプロ研だと思ってたんですよ。

後藤:今はリクルートで出世しちゃってすごいですよね。たまにageHaの件で相談にのってもらったりしますよ。我々だと社会人ネットワークにかける部分がありますから、そういう人達を動員するにはどうすればいいか、とか…。
だからプロ研を見ていてキャンパス・リーダーズ・ソサエティ(CLS)も楽しそうだなと思って参加したかったんですよ。でも僕はClub DJでもないし、何処にも属してなかった。そもそも当時はCLSのなかに放送系のものがなかったんですよ。学園祭実行委員会、プロデュース研究会、広告研究会、映画研究会、ミニコミ研究会の連盟があって…本来なら放送研究会も入るべきなのに、入ってなかったんです。放送系としてはビクターがやっていた「みみずく村」っていうのがあったんですけど、企業がやっていて純粋な学生団体ではなかったので、2年の時に各大学の放送研究会の人たちに声をかけて、「東京学生放送連盟」を作って、CLSに参加したんです。

--「東京学生放送連盟」には何校くらい参加してたんですか。

後藤:いくつだったかなぁ。覚えてないですけど、12校くらいですかね。結局僕は何処にも所属してないんで、幹事はやらなかったんですけど、裏のスタッフというか…。

--立教にはClub DJのほかに放送サークルはなかったんですか。

後藤:ほかに放送研究会というのがありましたけど、僕は入ってませんでした。

--どこにも入ってなくても連盟設立できるんですね。

後藤:まあ、よくやれたなとは思いますけど(笑)。

--無所属立候補ですね(笑)。こうやって経歴を拝見してると、とにかく自分で何かをやりたいというタイプなんですね。人が作ったものや伝統を受け継ぐというよりは、自分で作るのが好きだったんですね。生まれついてのプロデューサーって感じで(笑)。

後藤:確かに作るのが好きだったのかもしれませんね。

--3年生のときには「日本青年芸術家協会」立ち上げですか?これはずいぶんカタイ名前ですね…なんかちょっと胡散臭い感じもしますが(笑)。

後藤:そうですよねぇ(笑)。名前は迷ったんですけどね。カタイ名前にしよう、ってことで…。

--これはどういう団体なんですか。ごく真面目な?

後藤:真面目なイベントもやりましたよ。最初は渋谷のLa mamaでMTVと学生向けのカード会社の協賛でライブ・オーディションをやりました。
あと、敬老の日に日比谷公園で二日間「シルバーフェスティバル」っていうのがあって、イベントそのものをやっている代理店が個人レベルだったんですが、テーマが「若者との交流」だったんで、うちでプロデュースしました。

--どんな方々が参加されてた団体なんですか。

後藤:そうですね…今ニューヨークで活躍してるDJのトミイエサトシとかも一緒にやってましたね。

--ということは、名前の印象から受ける古典的なイメージではなくて、最先端の方々だったんですね。

後藤:ああ、そうですね。音楽やファッション系、アート系から専門学校から様々な人達とやっていました。クラブイベントもやったり。

--大学時代の後半はこの団体が中心ですか。

後藤:あと2年生の時はディスコ・ブームもありましたね。今フロンティアっていう代理店やってる友達がいて、当時インターカレッジの大規模なディスコパーティをやっていて、それを一緒にやったりしてましたよ。でも僕はどうしてもディスコノリが苦手で、クラブミュージックのほうが好きでしたね。だからヒップホップのイベントとかやってました。

 

4. 足りない生活費はプロデューサー業で補填!? 大学時代唯一のアルバイトは…

後藤貴之4

--大学時代を通じていちばん時間を割いてたことはプロデューサー活動ですか。

後藤:そうですねぇ。

--でも学校にはちゃんと行ってたわけですよね。

後藤:4年で卒業できたのは奇跡だったと思いますよ。卒業式に「何しに来た」って友達にいわれましたから。「見学に来た」って(笑)。真面目にコツコツやってるヤツが留年して、僕は要領だけで渡ってきたようなもんでしたから。

--忙しかったですか。学生時代は。

後藤:忙しかったですね、やっぱり。

--学生とは名ばかりの、実際はイベント・プロデューサーだったわけですよね。

後藤:そうかもしれないですよね。

--経歴としては簡単に書いてありますけど、実際にやるのって大変ですよね。イベントひとつやるだけでものすごく時間と労力がかかってるわけでしょ。そのエネルギーの原動力は何だったんですか?

後藤:そうですね。だいたい基本的に「人に会いたい」っていうのが根本にあるんですよ。遡ると川島なおみさんまで戻るんですけど(笑)。会いたいと思った人には会いたいな、というのが基本にあったんで。SASPとかでイベントをやるにしても、だいたい200通ぐらい案内を出すんですよ。CLSのキャンパス・サミットの出演交渉ごとなんかは僕がやったりしたんですけど、会いたい人には会って話を聞くっていうスタイルだったんで。

--行動力だけあればできるって話でもないですよね。やっぱりそういう政治力やリーダーシップも必要ですよね。すごいですね。誰に頼まれたのでもなく、好きでやってたんですよね。

後藤:そうですね、好きでやってましたね。

--大学の4年間に手掛けたイベント全部通じて、事業としては金銭的にプラスだったんですか?マイナスだったんですか?

後藤:そうですね…親に頼らずなんとかできたんで…。

--生活費もそこから出てたんですか。

後藤:そうですね。授業料以外出してもらってなかったんで。

--じゃあこれらのイベントで生活を支えてたんですか。ほかのバイトとかしないで?

後藤:バイトはDJぐらいですね。

--それはスゴイですね。完全に「学生」とは名ばかりですね(笑)。

後藤:1年生のときに唯一やったバイトは三浦和義さんの「フルハムロード・ヨシエ」でしたね(笑)。

--あのロス疑惑の三浦和義さんですか?

後藤:そうです。表参道にビクターのスタジオがあって、そこで僕もミニFMのDJをやらせてもらってたんですよ。それで僕の番組の前の時間のDJが、当時「ブルータス」編集部の小黒一三さんだったんですね。休憩時間に小黒さんがだれかに電話していて、どう考えても三浦和義さんだと思ったので、「今電話してたのって三浦和義さんですか」って聞いたら、そうだって教えてくれて。それで、僕のやっていることを説明して紹介してもらったんです。それで三浦さんにはアフリカ救済のイベントに出て頂くことになって。

--ちょうど話題の人だったんですね。まだ捕まってなかったんですか。

後藤:まだでしたね。「Xデー近し!」みたいな頃で。マスコミが追いまくってる時期で…この人は会ってみたいなって。それで連絡して、赤坂の東急ホテルで会ってもらったんです。彼が捕まったところですね。それで2時間ぐらいお話しさせていただいて。すごいんですよ、しゃべると。止まらないんです。タバコに火を付けて、全部灰になるまでしゃべってるような人で。「後藤君の考えは面白いよ。どうせやるなら学生の組織を世界中に広めたらどうだ」って言ってくださって。それからしばらくして電話があって、「うちの良枝がバーを出すから手伝ってくれないか」って。親に相談したら大反対されましたけどね。「やめなさい!」って(笑)。

--もちろんやったんですよね(笑)。

後藤:やりましたよ。面白かったです。渋谷の桜丘にあって、夜は11時ぐらいまでだったんですが、当時僕は池袋より奥のほうに住んでいて、帰れないと一緒に遊びに連れていってくれたりして。

--バーテンさんですか。どのくらいやってたんですか。

後藤:そうですね。2〜3ヶ月くらいですけど、三浦さんご夫婦には大変お世話になりました。

--それ以外は、皿洗いとか単純作業のアルバイトはしたことがないと…すごいですね。フリーのプロデューサーとして立派に食ってたわけですね。

後藤:そうですね、やったことないですね…真面目じゃないんですよね。

--失礼ですけど、かなり儲かったんですか。とりあえず生活はできるっていうレベルだったのか、それともかなり余裕があったんですか。

後藤:そうですねぇ、まあちょうどバブルの時期だったんで、企業が学生にお金を出す時期でしたから、たとえばアンケートを仕切るだけでも入ってくるんですよ。住所とか名前とかいろいろランクがあって、細かいところまで書くと1枚2000円とかですよ。それを何人かでやっていて、僕がまとめて何千枚とやったりしてましたし。

--そういう学生生活を送っている人はほかにもいたんですか?

後藤:他の人はみんなサークルに入っていたんで、サークルでは純益は求めちゃいけないですよね、利益が出たらサークルの部費になるわけですからね。僕のように個人でやっていたような人達はパーティを仕切るパーティ系の人達ですね。彼らはホントに会社組織のような感じでしたから。「ああこんなに(お金が)動くんだ」って思って見てましたね。

--あの当時の大学生はほんとにパワーがありましたよね。

後藤:ありましたね。非営利団体のCLSとかでもね、イベントの前には事務所を半年くらい借りるんですよ。家に帰らずに寝泊まりも事務所で…営業局、財務局、総務局と分担ごとに局が別れていて、まあ営業が一番大変なんですけどね。企業をまわって何百万、何十万と協賛金を集めるわけですから。有線ブロードネットワークスの宇野社長は確か営業のトップでしたね。僕はCLSでは5代目の代でした。初代は西川りゅうじんさんで、2代目は青学の今井さん、峰岸さんが3代目、4代目が東大の望月さん、そして僕らが5代目で。ホテルオークラのいちばん大きい会場を借りて、学生の名刺交換会とかやってましたね(笑)。やるのに2000万とかかかるんですよ。企業からみんなお金を出してもらって。僕の場合はお金を集めるよりはソフトのほう、3、4代目の時に進行台本を書いたり、ゲストの出演交渉をやってました。

--すごい時代でしたね。もう「学生企業」って感じですよね。話には聞いてるけどイベントでは何万人と集めてたわけでしょ。

後藤:すごいパワーですよね。そういうグループの代表だった人達はみんなリクルートに就職してますよね。引き抜かれて…。

--まさに85年の4月から89年という、バブル景気の絶頂を大学で過ごしたんですね。

後藤:世の中が一番浮かれてた時代を見事にビジネスにもしたわけですね。

--卒業後はどこかに就職しようという気は当然なかったですよね(笑)。

後藤:まったくないですね。「リクルートスーツってナニ?」っていう感じで。すみません…(笑)。

--リクルートに来いとは言われなかったんですか。

後藤:話はありましたけど…その時は既に自分でやってましたからね。唯一の就職活動と言えば、寝ころがりながら電通に電話して「募集はまだやってますか」「もう終わりました」「あっ、そうですか」ってそれだけですね(笑)。30秒くらいで(笑)。

--一応電通は受けようかなと(笑)。でも終わってたんですね(笑)。ひとつぐらいやらないとまずいかなと思ったんですか。

後藤:いや、親の手前なんですよ、「就職活動はしたの?」「うん、電通…落ちちゃった」って(笑)。落ちるも何も終わってるって(笑)。受かるわけないですけど、ほんと申し訳ないですよね、みんな周りは必死に就職活動やってるのに…。

 

5. クラブシーンを盛り上げたい 〜大成功だった山本リンダさんの復活

後藤貴之5

--卒業後は「WORLD MANSION PROJECT」を立ち上げるわけですね。これは会社ですか?

後藤:いえ、まだ会社ではなかったですね。個人でした。大学時代からクラブイベントをやってたんで、ニューヨークとかも3年生ぐらいから行くようになったんですよ。

--仕事で?

後藤:いえ、仕事も兼ねてというか、行くために仕事もらってましたね。あるクラブからお金もらってニューヨーク行って、リサーチして報告書をあげて、みたいなことはやってましたね。ニューヨークに行ったらすごくクラブシーンが盛り上がってたんで、そこにはすごくインスパイアされましたね。向こうではヒット・チャートにもクラブミュージックがすごくリンクしていましたけど、日本のシーンは皆無だったんで…。

--ということで、クラブイベント、クラブミュージックを仕事にしようと「WORLD MANSION PROJECT」を始めたんですか。

後藤:そうですね。青年芸術家協会のときも絵を描いてるヤツやパフォーマーとかいろいろいたんで、彼らにイベントに出てもらいつつ、DJを入れて。それも最初はトミイエとか中心でしたね。

--そのころはDJはやってなかったんですか。

後藤:しゃべることにはもう興味はなかったですね。

--回す方は?

後藤:回す方も…興味なかったですね。

--そういう自分でやろうって興味は薄れてたんですね。

後藤:仕掛ける方が面白くなってきたんですよ。人を集めたり楽しませたりする方が面白くて。

--「WORLD MANSION PROJECT」をたちあげて、2年間はイベントを打ちまくったわけですね。

後藤:そうですね。本当は卒業するときにお店を出してる予定だったんですよ。ちょうどバブルで友達の叔父さんに30社くらい持ってる会長さんがいて、別荘とか遊びに行かせてもらったりしてたんですけど、その人が押さえてる表参道の大きい一軒家でお店をやろうって事になっていて、会社もそのためにつくる予定だったんです。その場所を改装する前に身内だけのパーティもやって、さあ改装っていうところで、会長から電話があって、「申し訳ないけどあの物件売れちゃったから、君には貸せないんだ」って(笑)。4月くらいの話ですよ。それでしょうがなくまたイベントをやったりするようになったんです。

--そこはクラブっぽいお店にする予定だったんですか。

後藤:そうですね、クラブだけじゃなくて映像とか音楽とかファッションとか学生時代からいろいろイベントやっていたので、そういう総合的なカルチャーが集まるようなレストランバーにしようと思ってました。

--それは結果として今ふりかえると実現しなくてよかったんでしょうか。

後藤:どうなんでしょうね。あったらあったで…失敗したかもしれないですけどね。

--それから…「山本リンダ復活イベント」は有名ですよね。このへんからプロデューサーとしてどんどん活躍されていくわけですよね。

後藤:WORLD MANSIONというパーティをやりながら、CLUB DIAMONDSというイベントを始めまして…それはミュージシャンがDJをやるというコンセプトのイベントだったんですよ。そういうイベントは当時は全くなかったんで。だんだん人気が出てきたスカパラとか、東京パノラママンボボーイズにはDJだけじゃなくてライブもちょっとやってもらったりして。DJじゃない人がやると、客層も多少違いながら面白かったんですよ。2回目をやるときにはもっとライブもやりたいなと思ってたんです。
その頃に大貫憲章さんがよくDJでフィンガー5とか山本リンダさんの曲をかけていて。大貫さんは大学の大先輩なんですけど。僕もフィンガー5とか山本リンダさんとか子どもの頃ファンだったんですよ。それでいつものクセで「山本リンダさんに会いたい」と思いまして(笑)。世の中会えない人はいないと思ってたんですね(笑)。それでリンダさんを捜し始めまして(笑)。

--捜さないとわからなかったんですよね。

後藤:そうなんですよ。当時は情報がゼロだったんで。いろいろ捜していって、(制作会社の)ハンズの方に教えてもらいました。今の新宿リキッドルームがある場所は、昔はグランドキャバレーだったんですけど、リンダさんはそこで歌ってたんです。そこに交渉に行きまして、「『CLUB DIAMONDS』というイベントをやっているんですけど、出ていただけませんか」って。

--すぐにオッケーしてくれたんですか。

後藤:結局は快諾していただいたんですが、最初は躊躇していたみたいです。「私が若者に受けるはずがない」って思いこんでるようでしたね。でもクラブに行けば憲章さんとか日本語の曲をかける人はみんなかけてましたし、もりあがるんですよ。だから絶対にウケると思ってたんで、そういった状況を説明して説得しました。また、ちょうどそのころはテイ・トウワ君のDEEE LITEがニューヨークでものすごく流行っていて、クラブシーンのサイケデリックなブームが来ていたんですよ。リンダさんもちょっとサイケデリックなイメージがありましたよね。だからそれを合致させたら絶対面白いものになるなと思って説得しました。
浅川君のMORE DEEPでヴォーギングも流行り始めてたので、MORE DEEPにリンダさんの振り付けとバックダンサーをやってもらったんです。本当はその年、90年の12月にサイカっていう汐留にあったクラブでやるつもりだったんですけど、サイカが不渡り出してつぶれちゃったんで、翌年3月にクラブチッタ川崎でやりました。

--このイベントは大当たりでしたよね。

後藤:当たりましたね。すごいメンツが出てくれたんですよ。「リンダさんが出るなら」って。当時まだブレイクはしてなかった電気グルーヴとか大貫憲章さん、スカパラ…たくさんの方に出ていただいて。クラブイベントにダフ屋が出るっていうのはそれまでなかったでしょうね。
それがきっかけでリンダさんのプロデュースをやることになって、その後1年ぐらいやっていましたね。マスコミもたくさん来ましたけど、最初のイベントは一般マスコミは全部シャットアウトして、音楽系、ファッション系の雑誌のみの取材を入れたんです。ファッションのほうもラグタイムカウボーイズっていう有名なインディーズ・ブランドがあって、リンダさんのファッションを担当して頂いて、音楽はハウスで…リンダさんには5回くらい出演して頂いたと思いますね。

--ファッション・ブランドと組むとかそういう仕掛けはすべて後藤さんがやられたわけですよね。そのころはもう会社は立ち上げられてたんですか。

後藤:そうですね。リンダさん復活イベントをやった時点で、各レコードメーカーから「山本リンダさんのCDを出したい」って手が上がって、その窓口も僕がやってたんです。でも僕はリンダさんのほかにハウスのコンピレーションもやりたくて、両方やってくれるところを捜してたんです。それでソニーさんとやることになって。担当の人も最初は「クラブと言えばお姉ちゃんのいる所、ハウスと言えば家」みたいな感じだったんですけど(笑)、担当のディレクターも一生懸命勉強してきてくれて、それでやることになったんです。「TOKYO HOUSE UNDERGROUND 1」というコンピレーションを作り始めて、うちの第一弾アーティストと、MORE DEEPも入ってました。

--第一弾アーティストというのはどなたですか。

後藤:SUBSONIC FACTORというユニットです。ヴォーカルがハーフの女の子、ラッパーが黒人、キーボードが日本人という3人ユニットです。ほぼ全曲英語でした。キーボードの日本人は後のFavorite Blueや今のMOVEの木村貴志君です。それでソニーと契約するのにやっぱり法人じゃなくちゃだめで、それで正式に会社にしました。

--その後はアーティストを中心としたイベント・プロデューサーになっていくわけですよね。

後藤:基本はそうですね。

--ひとつひとつ語っていただくと大変なことになるんですが(笑)、この10年間はひたすらイベントやアーティストのプロデュースを手掛けてこられたわけですよね。今はどれくらいの人数のアーティストがいらっしゃるんですか。

後藤:うちの所属は…sugar soul、orange pekoe、RYO the SKYWALKER、beret、HIKARI、森田昌典、それと新人が1組いるんで、7組ですね。

--プロダクションの社長さんとしては、それは自然に知りあった人達をプロデュースというかマネージメントしているんですか。

後藤:いや、オーディションが半分、紹介が半分みたいな感じですね。やる・やらないは直感ですね。コイツはいいな、と思ったらデモテープを聞きながらその場で電話するんで、相手は驚くみたいですね。昨日とか一昨日出したデモテープで、もう電話が来るなんて思ってもいないみたいで。orange pekoeとかberetとかはそのパターンでうちに所属してます。そういうアーティストはあとからいろいろ連絡もらうみたいなんですけど「最初に連絡くれたのが後藤さんでした」って言ってくれます(笑)。いつも直感でしかないんですけど。

--でもその勘はあたってるわけですよね。

後藤:まあ幸いなことに今の所そうですね。

--これだけの経歴をお持ちだと「それはどこで身につけたんだろう」って考えてもわからないですね、(笑)。

後藤:わかりませんね(笑)。

--でもいろんなクラブイベントとかやっていろんなものを聞いてるうちに、なんとなく「コレだな」って思うようになったんでしょうね。

後藤:そうですね、いろんな人と会って話したり、クラブで色々な音を聞いたり、流れみたいなものを考えたり。

--今の音楽業界ではその勘がハズレちゃって大変なことになってる人がたくさんいるわけでしょう。そのなかで、当たっているって事は、やっぱり特別な才能なんじゃないですか。

後藤:まあでも僕も、浅川君も、あと以前うちにいた谷川君(谷川寛人氏:現リズメディアグループ代表)もそうだと思いますけど、クラブミュージックがまったく認知されていなかったときから始めていて、クラブシーンのなかからオリコンチャートに入る音楽を作りたいっていう目標はありましたからね。日本の音楽シーンの中から海外に聞かせても引けを取らない音を、って考えてましたし。今もそれに近い、あまり変わらないことをやっているつもりですけど。だから96年に、アメリカでは常にチャートのトップを飾っているR&Bを、日本語で出来ないかと思って、sugar soulを作りました。最初は3人組のユニットだったんです。sugar soulは当初クラブシーンではすぐに人気が出たんですが、谷川君のMISIAが直後にデビューして、あっという間にメジャーで全国制覇しちゃいましたからね。我々にも出来るんだっていう自信がつきましたね。
以前、バンドブームがあって、今またロックが流行ってますよね。でも僕にはロックはできないんですよ。今はクラブのシーンがちょうど我々の流れの中にあるっていうだけで、たとえば3年後はどうなってるかわからないじゃないですか。もしかしたら3年後には僕も違う方向を向いているのかもしれないですし。

 

6. 様々な文化の発信地をめざして …GOLDの夢を託したSTUDIO COAST

後藤貴之6

--イベントプロデューサーとしては、浅川さんと組んでいろいろとやられてますよね。ageHa@STUDIO COASTとか…手応えはいかがですか。

後藤:う〜ん、これからですかね…僕が参加したのはちょっとだけ後なんですよ。浅川君とGOLDのスタッフだった高橋征爾君が立ち上げたもので。高橋君が何年か前にZEPP東京で「MOTHER」っていうイベントをやったんですが、1回で終わっちゃったんですね。我々はGOLD時代の仲間なんで、高橋征爾君をなんとかしてあげたいって思いがあって…僕や浅川君は高橋君に対するサポートっていう立場ですね。どちらかというと。もちろん日本のクラブシーンっていうのは、僕らが遊んでたときのGOLD のような大バコはなくなってしまったんで、ああいう大きな文化の発信地みたいなものは作りたいなと思っていましたね。中途半端な大きさだったら僕も浅川もやる必要ないんです。既にやっている人たちは沢山いますからね。大きなムーヴメントや流れを作るには、やはり大きなハコが必要なんです。今の20代そこそこの若い子たちは、GOLDみたいなハコは体験してないですからね…ああいった面白さをもう一度再現させたいですね。

--その面白さって言うのは一言で言うとどんなものですか。

後藤:そうですねぇ…カルチャーそのものだと思うんですよね。今はどちらかというと音楽としてのクラブみたいなものに走っていて、ヒップホップはヒップホップ、ハウスはハウスで、みんな集まる場所も違いますよね。当時のGOLDが面白かったのは、そこにいろんなものが集約されてたんです。そこにすごく真面目な学問的な人達が集まってるときもあったし、当然ファッションも映像も、いろんなクリエイティブな人達が集まる場所であり、そういう人達の発表の場でもありましたし…刺激の度合いが今と違うというか、決まったパターンはなかったですね。

--どうして今はこんなに細分化されてしまったんでしょうね。クラブに限らず自分の場所を決めてしまうと他のものは排除、みたいな雰囲気がありますよね。

後藤:ええ、そうですね。昔、表参道でお店をやろうとしていたときはGOLDはまだなかったんですけど、同じ事を僕も考えていたんですよ。そういう風に刺激しあえる場所がないとダメだなって。当時ちょっと勉強もしたんですが、ヨーロッパではカフェ・ソサエティみたいな文化があるんですけど、日本でも近世、江戸時代には「連」っていう場所があって、そこにいろんな文化人が集まった交流の場所があって、大陸の文化を勉強したり、情報交換をしたり、今のクラブみたいなものなんです。そういうところからカルチャーが生まれるんですよ。日本の今のシーンを見るとそう言うところがないなと思って、やりたいなと思ったんです。

--ageHaを成功させることができるかっていうのは、後藤さんにとってもすごく大きな問題なんですね。

後藤:そうですね。大変だとは思いますけどね…まだまだ模索中ですよ。でも体験したことない人達にはすごく新鮮みたいですけどね。

 

7. 基本はやっぱり「人」対「人」 …マネージメントの面白さ、スタッフのありがたさを痛感

後藤貴之7

--今の音楽業界の人達の後藤さんに対する一般的な認識は「sugar soulやorange pekoeの所属事務所の社長さん」ていうのが対外的なイメージだと思うんですが、アーティストマネージメントが後藤さんの最終的な自分の仕事という認識ではないんでしょうね。

後藤:そうですね、100パーセントではないでしょうけど、マネージメントはやっぱり面白いですよ。人対人っていう部分で、アーティストってちょっと人と違った部分を持っている人が多いから、そういう人達と接してるとすごく大変なこともありますけど、教えられることもたくさんありますね。自分に持ってないものをたくさん持っていて、「こういった見方があるんだな」って気づかされたり…そういうおもしろさを知るとマネージメントをやっていて良かったなと思いますね。
ただアーティストもひとりの人間で、親御さんがいて親戚がいるわけですよね。そういう人間を預かる側の立場なんで、引き受けるものの責任に対しては神経使いますけど…。まあそれもマネージメントのおもしろさですしね。

--このインタビューは音楽業界を目指している若い人達もたくさん見ていると思うんですが、彼らに何かメッセージをいただけますか。苦言でもいいし、励ましでもいいし。

後藤:そうですねぇ…僕が10〜20代のころは、「これは無理だろう」とか、そういう枠には全くとらわれていませんでしたね。「無理な事なんてひとつもない」って普通に思っていたんで。周りからは「アホじゃないの」とか「おかしいよ」とか言われてましたけどね。でも僕の中ではそれは普通だったし、やっていけばそれなりに経験もしてたぶんオトナになっていくんでしょうけど、若いときにそれが出来るか出来ないかっていうのは、後々大きい違いに繋がっていくのかなっていう気がしますね。

--つまり、何かにチャレンジしないヤツには何もないよってことですか。でも今はなかなか度胸がなくてそこまで出来ない人が多いじゃないですか。音楽業界といえども、待遇や給料や休みを気にして応募してくる人が増えましたよ。

後藤:そうですかね。うちは絶対そういう人はとりませんけど(笑)。なかなかいないですけどね。

--今の社員はどうやって集めたんですか。

後藤:だいたい紹介とかですね。求人告知とか1回も出したことないんです。周りで集めたり引き抜いたりもありましたけど。

--社員は何名いらっしゃるんですか。

後藤:12名ですね。

--後藤さん以下スタッフの役割分担とかはいかがですか。

後藤:基本はニューワールドプロダクションズにはマネージャーがいて、ニューワールドレコーズには制作がいます。ですけど、設立して12周年を7月に迎えてひと回りしたので、まあ全体的には、今さらながらそろそろ会社をちゃんとしようかな、という時期に来てるかもしれないですね(笑)。

--今のスタッフには納得されてますか。

後藤:ええ、勿論ですよ。もうよくやってくれてると思います。僕が逆に支えられてるようなものなので。何でも言ってきますよ。僕はワンマンじゃないんで、そういうバランスでやっていってます。

--そうなんですか。ではみんなをまとめつつ、権限を委譲しているポイントもありつつ…。

後藤:そうですね。最終判断や大きなポイントでのアイデアは僕の役目ですが、基本的にはスタッフに任せています。アーティマージュみたいな人数になっちゃったら絶対に僕はまとめられませんね(笑)。でもうちは甘いんでしょうね。自らやめた人間はほとんどいないですけど、社員を入れることも少ないし…みんなが音を上げて「これ以上だともうまわらないから誰かひとり入れてください」って泣きつかれてから入れるような有様ですから。まあ人数少ないからそれで成り立ってるようなもんですよ。アーティマージュは人数多いですからたいへんでしょうね。だから浅川君は凄いなって思いますよ。

--では今後のニューワールドとしては、どういう方針で、どこへ向かおうとしているのかをお聞かせ下さい。

後藤:それがいちばん難しい質問なんですよねぇ。他のみなさん方のインタビューを読むと、立派なこと答えてるなぁ〜って(笑)。
そうですねぇ…中学時代からやってきたことの核は変わっていないなとは思いますし、音楽という面では全部繋がっているのかもしれないです。勿論、常に新しい事をやって、日本の音楽シーンやカルチャーシーンに少しでも貢献できればとも思いますけど、でも基本はこんな人間なんで、今後もその時々の直感や興味で面白いと思える事をやっていこうかなという感じですね。なんか立派なこと言わないとダメですかね(笑)。ニューワールドの今後の方針としては「常に正しく、誠実に」ですかね(笑)。どこへ向かうかは、僕にもわかりません(笑)。

--今までの過去13年間、自分の予想以上にうまくいって満足している部分と、できるはずだったのにうまくできなかった部分とかいろいろとあると思うんですが、当初やろうと思っていたのにまだ実現していないことってありますか。

後藤:やっぱり人対人の部分ですね。全てはそこから始まってるし、そこに尽きると思うんですけど。学生の頃はほんとに無鉄砲で突っ走ってるだけで、なにが常識かもわからずやりたいことをやってきつつ、色々迷惑もかけてしっぺ返しを食らってるところもあるんで…そこで人間的にも少しずつ成長してきている部分はあるのでこういった失敗が自分にとっては一番重要だったんだと思います。
うまくやれなかった部分というのは、人対人の部分で失敗したためにうまくできなかったことでしょうね。だから自分的に満足したっていうのは、そこの関係値がうまくいって、それがいい結果に繋がっていることなんだと思います。具体的でなくてスミマセン(笑)。まだまだこれからだと思ってるんで。

--後藤さんは元々メーカーやプロダクションに勤めていたとかではなく、ほんとにインディペンデントな存在からここまで来ているわけですよね。だからこそしがらみがなく好きなことができるというか、いろんな事ができるポジションだと思うのでこれからも思う存分、面白いことを続けていただきたいと思います。
今日はどうもありがとうございました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

高校時代からずばぬけた行動力を生かして活躍し、大学時代からフリーのプロデューサーとして、そして卒業後はクラブミュージック・シーンになくてはならない存在としてつねにビジネス手腕を発揮を発揮してきた後藤氏。しかし、自分を成長させてくれる人との出会いやスタッフの支えがあり、その関係値がうまくいくことで成功できると自覚する氏の人間的な魅力が、アーティストやスタッフを惹きつけているのだと感じました。

 さて、その後藤氏にご紹介いただいたのは、2003年9月に就任したばかりのロードランナー・ジャパン(株)代表取締役CEO、森田和幸氏です。「踊る大捜査線」等数々のヒット作を手掛ける音楽プロデューサーとしても知られる森田氏に、新しいフィールドであるロードランナーで今後めざしていることや、これまでの波瀾万丈のプロデューサー人生を熱く語っていただきました。